カールヤトー

1896年、ハノーファー市当局の技術検査官として、ヤトーは町外れの車庫で彼にとって最初の滑空式飛行機械を作った。初飛行に飽き足らず、また同年に起きたオットー・リリエンタールの致死的な墜落を心配して、ヤトーは自分の飛行器具を継続的に改良することに取り組んだ。

1903年8月13日、すなわちライト兄弟による初の(操縦可能な)動力飛行の3ヶ月前、ヤトーはハノーファーのファーレンヴァルダー・ハイデ(de:Vahrenwalder Heide)で操縦不能な動力飛行を行なった。このことは「四人の目撃者によって公的に認められて」いる。ヤトーの飛行機は複葉機で、翼面積は36平方m、尾翼はないが操縦翼面としては方向舵と昇降舵を備えていた。10馬力の内燃機関で推進式プロペラを回す構造だった。地上30cm足らずの高度で、約20mの距離を飛んだ。ヤトーはこの成果を三ヵ月後には距離80m、高度2.70mにまで改善した。

学校でのボランティア

ボランティアに取り組むことで自己成長の可能性が高められるなど、人生を充実する活動の一つでもある。高校生の交換留学などはもともとはボランティアによるものである。またアメリカでは、州によって高校生、大学生の時期に5000時間ほどボランティアに従事するとキャリア形成につながるというシステムがある。ボランティアを募集する機関とボランティアをしたことを認定する機関や認定資格者が制度的に確立していて、一定の活動条件を満たした場合に本人にボランティア認定証が発行される。この認定証がホスピタリティの高い人材であることの証明となり、大学への進学や就職活動において、ホスピタリティが必要とされる学部、職種に従事したいものへの能力評価の一定条件となっている。これは元々、キリスト教の教えがベースとなっているといわれ、神父や牧師、教師、医師など「師」を司る職業には、必ずホスピタリティが要求されるので、十代のうちからその素養と実践が重視されている。日本の大学受験や国家試験において、たとえば医師になるのにホスピタリティの軽重よりも、ペーパー試験の成績が重視されるのとは大きな違いがある。

オーバーハイム

第1号製品はシーケンサーであるDS-2で、当時発売されていたモーグやアープのシンセサイザーをコントロールするための製品であったが、後にDS-2でコントロールできる音源モジュールSEMを自社で開発した。当時のモーグ、アープのシンセサイザーはVCFが24db/octの変化量だったが、SEMのVCFは12db/octの変化量であり、そのことがオーバーハイムのシンセサイザーの個性となった。

SEMはモジュールで鍵盤が付いていなかったため、1975年に鍵盤付きでSEM4台分を内蔵したポリフォニック・シンセサイザー4-Voice、同じく2台分内蔵の 2-Voice を発売した。その後もOB-X、Matrix-12 などのヒット製品を次々発売したが次第に資金繰りが悪化し、顧問弁護士に会社を乗っ取られる形でトーマス・エルロイ・オーバーハイムは同社を去った。1986年にギブソンの傘下に入っている。

その後も「オーバーハイム」の商標自体は存続し、いくつかの新製品を発表している。

オイギンス

ベルナルド・オイギンスは、チリのチジャンに生まれた。

父であるアンブローシオ・オイギンスはアイルランド・スライゴ州出身のスペイン政府官吏で、母は現地の女性でチジャンでも評判の美人であった。スペイン政府はアメリカ州で上級官僚と現地住民との結婚を禁じていたが、ベルナルドの生誕時にアンブローシオはまだ下級の軍士官に過ぎず、ベルナルドの母と結婚しなかった理由は不明だそうだ。

父から離れ、父からの送金によりベルナルドは母の実家で育てられた。

父アンブローシオがペルー副王になると、ロンドンへ留学。彼はここで南アメリカ独立の気運を知り、南アメリカ独立を目指した結社ロヒア・ラウタロに入会した。

クーデターによる失脚など、なかなかタフな生涯を送った人だと思う。

人型

黒い背景で白い人型の絵が2人分書いてある。「カン、カン」っていう音が鳴り続ける。
地球上では2秒にひとり人が死んでしまうという事か、2回音が鳴ったら片方が消える。
次の瞬間には元の場所に人型が復活し、今度はもう片方が消える。
それが延々と繰り返されるというCM。

これは聞いただけでも恐ろしいCMだ。結構昔、深夜帯で流れていたらしい。

あまりに不気味なのと、何を伝えたいのかCMの意図が分からないという苦情があいつぎ、すぐに打ち切りになったのだとか。

 

サンディエゴ

1542年、ポルトガル生まれのスペインの探検家のフアン・ロドリゲス・カブリージョ(スペイン語: Juan Rodríguez Cabrillo)あるいはジュアン・ルドリゲシュ・カブリーリュ(ポルトガル語: João Rodrigues Cabrilho)が、スペイン船でロマ岬(Point Loma)に到着し、この地を「サン・ミゲル(San Miguel)と名づけた。ヨーロッパ人として初めてサンディエゴに足を踏み入れたとされている。1602年、植民地開拓に来たスペイン人のセバスティアン・ビスカイノ(Sebastián Vizcaíno)は、同年11月12日の「サン・ディエゴ・デ・アルカラ」の祭りの日に「サン・ミゲル」から「サン・ディエゴ」に町の名前を変更した。これ以来この都市の名前となった。

マーヴィンピーク

『ゴーメンガースト三部作』として知られるシリーズで有名だが、書き上げられた作品は、ピークが長篇シリーズとして構想したものの始まりにあたる。主人公タイタス・グローンの生涯を描く続編が予定されていたが、ピークの死でシリーズが未完に終わったため、現在では一般には三部作とみなされている。同時代のJ・R・R・トールキンの作品と比較されることも多いが、ピークの超現実的なフィクションは若い頃に愛読したチャールズ・ディケンズやロバート・ルイス・スティーヴンソンの影響であり、トールキンの神話学や言語学の研究の影響を受けていない。

その他にピークが書いたものには、数々のナンセンス詩、子供向けの物語(『行方不明のヘンテコな伯父さんからボクがもらった手紙』)、ラジオ・ドラマ、 ‘Mr Pye’ (比較的綿密に構成された小説で、作品名の由来となった主人公の福音主義的な主張や気楽な世界観を、神が暗に嘲笑するというもの)などがある。

ヴィクトリア

はじめホイッグ党の首相メルバーン子爵を偏愛したが、1840年に母方の従姉弟にあたるザクセン=コーブルク=ゴータ公国公子アルバートと結婚すると彼の忠告に従って王権の中立化に努めるようになった。その後もしばしば政治に影響力を行使しながらも基本的に議会の状況に基づいて首相を選ぶようになった。国王の政治的影響力の面ではアルバートがヴィクトリアに代わって重きをなすようになっていったが、彼はその権威が絶対的になる前の1861年に薨去した。(また同年3月に母ケント公夫人ヴィクトリアを亡くしている。)これによりイギリスに立憲君主制の道が開かれることとなった。

一方悲しみにくれるヴィクトリアはその後10年以上にわたって服喪し、公務に姿を見せなくなったが、1870年代に保守党の首相ベンジャミン・ディズレーリに励まされて公務に復帰し、彼の帝国主義政策を全面的に支援し、大英帝国の最盛期を築き上げた。1876年には「インド女帝」に即位した。ディズレーリを偏愛する一方、ディズレーリと並んでヴィクトリア朝を代表する自由党首相のウィリアム・グラッドストンのことは一貫して嫌っていた。彼のアイルランド自治法案の阻止に全力を挙げた。晩年には老衰で政治的な活動は少なくなり、立憲君主化が一層進展した。

ウッドロウウィルソン

進歩主義運動の指導者として1902年から10年までプリンストン大学の総長を務め、1911年から13年までニュージャージー州知事を務めた。1912年の大統領選では共和党はセオドア・ルーズベルトとウィリアム・ハワード・タフトの支持に分裂し、結果として民主党候補であったウィルソンが大統領に当選した。名誉学位ではなく、実際の学問上の業績によって取得した博士号を持つ唯一の大統領である。

1885年にブリンマー大学で歴史学および政治学を教えた後、1886年にはジョンズ・ホプキンス大学から政治学の博士号 (Ph.D.) を受ける。1888年にコネチカット州のウェスリアン大学に勤め、1890年にプリンストン大学の法律学と政治経済学の教授に就任、1902年6月9日に満場一致でプリンストンの学長に選ばれた。1910年から翌年までアメリカ政治学会の会長であった。